2008年12月23日
さをり織りとの出会い
今、中野さんのアトリエには
全国からたくさんのお客様が足を運んでくれている。
中野さんは
「頼まれたらよほどのことがない限り引き受ける」ということを
コシノアヤコさんから教わり、心がけているのだ。
そんな中野さんの夢が
障がいをもつ人たちの自立にむけてお役に立ちたい。ということと、
将来を担う子供たちの教育の協力ができれば・・ということだ。
そんな中野さんと何かの不思議な引き合わせのように緑のそよ風が出会い、
知的障害者通所更生施設ミルキーウェイと出会い・・・
そして、さをり織りが素敵な織物だということを皆さんに知っていただきたい。
そんな願いから
中野さんのさをり織りを使った作品作りが始まった。
さをり織りを活かすための作品は
何度も何度も打ち合わせをしながら、
バックや、マフラー、帽子など
いろんな作品がつくられた。
そんな中、
さをり織りの個性をもっともっと引き出すものとして
中野さんは、テディベアを生み出した。

そして、今もさをり織りをもっともっと素敵に見せる作品づくりを
中野さんは続けていらっしゃいます。
全国からたくさんのお客様が足を運んでくれている。
中野さんは
「頼まれたらよほどのことがない限り引き受ける」ということを
コシノアヤコさんから教わり、心がけているのだ。
そんな中野さんの夢が
障がいをもつ人たちの自立にむけてお役に立ちたい。ということと、
将来を担う子供たちの教育の協力ができれば・・ということだ。
そんな中野さんと何かの不思議な引き合わせのように緑のそよ風が出会い、
知的障害者通所更生施設ミルキーウェイと出会い・・・
そして、さをり織りが素敵な織物だということを皆さんに知っていただきたい。
そんな願いから
中野さんのさをり織りを使った作品作りが始まった。
さをり織りを活かすための作品は
何度も何度も打ち合わせをしながら、
バックや、マフラー、帽子など
いろんな作品がつくられた。
そんな中、
さをり織りの個性をもっともっと引き出すものとして
中野さんは、テディベアを生み出した。
そして、今もさをり織りをもっともっと素敵に見せる作品づくりを
中野さんは続けていらっしゃいます。
2008年10月14日
日本ミャンマー女性協会
「魚を与えるよりも、魚の取り方を教えなさい。
そうすれば、彼は一生食べることに困らないでしょう」
そんな牧師の説教を胸に・・・
ミャンマー人女性の地位向上を目指して
服飾技術を教え自立してもらおうと
平成12年1月1日
「日本ミャンマー女性協会」を発足させた。
平成9年にはじめてミャンマーに視察で訪れ、
民族衣装の美しい織物を見てすっかりとりこになったそうだ。
しかし、現地を歩いているうちに
貧しい人がたくさんいることに気がついた。
ミャンマー女性をはじめてみたとき、
みんな貧しいのに、奥ゆかしいところがあり、
そして、暗くない。
そんなミャンマーに何か貢献できることはないかと考えた。
そして、女性の自立を後押しできたら・・・と思ったのだ。
香川でもミャンマーに関する写真展や、資料展
そして、民族衣装を元に、ファッションショーも開催し
多くの人にミャンマーのことを知ってもらおうと活動している。
そうすれば、彼は一生食べることに困らないでしょう」
そんな牧師の説教を胸に・・・
ミャンマー人女性の地位向上を目指して
服飾技術を教え自立してもらおうと
平成12年1月1日
「日本ミャンマー女性協会」を発足させた。
平成9年にはじめてミャンマーに視察で訪れ、
民族衣装の美しい織物を見てすっかりとりこになったそうだ。
しかし、現地を歩いているうちに
貧しい人がたくさんいることに気がついた。
ミャンマー女性をはじめてみたとき、
みんな貧しいのに、奥ゆかしいところがあり、
そして、暗くない。
そんなミャンマーに何か貢献できることはないかと考えた。
そして、女性の自立を後押しできたら・・・と思ったのだ。
香川でもミャンマーに関する写真展や、資料展
そして、民族衣装を元に、ファッションショーも開催し
多くの人にミャンマーのことを知ってもらおうと活動している。
2008年10月05日
香川でファッションショー
24歳のとき結婚し、
ずっと大阪でコシノヒロコさんのお手伝いをしながら
活動を続けていたが
35歳のときに忙しい自分を見つめ直し、
子どもとのかかわり、両親とのかかわりを考え、高松へ戻ることを決意する。
木太町にアトリエを構えたが、のち、三木町の今の場所にアトリエを移す。
その場所に決めた理由の一つに、
周りはみどりがいっぱいで
何よりも少し小高いそのアトリエから見える夕日がとってもきれいだったということ・・・
今は、そのアトリエで皮革デザイナーとして全国に800名のお客様をもっている。
そして、その高松で平成9年2月9日
流行歌とファッションで戦後の歩みを振り返るイベント
「青春ラプソディin香川」を開催。
平成14年11月18日にはコシノヒロコさんの母、コシノアヤコさんを招いて
栗林公園で「魔法にかかった、魅惑の夕べ」というファッションショーを開催。

そんなさまざまな活動をされている中野さんのもう一つの顔、それが・・・
日本ミャンマー女性協会会長。
ミャンマーの女性の自立を後押ししていくというお仕事だった。
ずっと大阪でコシノヒロコさんのお手伝いをしながら
活動を続けていたが
35歳のときに忙しい自分を見つめ直し、
子どもとのかかわり、両親とのかかわりを考え、高松へ戻ることを決意する。
木太町にアトリエを構えたが、のち、三木町の今の場所にアトリエを移す。
その場所に決めた理由の一つに、
周りはみどりがいっぱいで
何よりも少し小高いそのアトリエから見える夕日がとってもきれいだったということ・・・
今は、そのアトリエで皮革デザイナーとして全国に800名のお客様をもっている。
そして、その高松で平成9年2月9日
流行歌とファッションで戦後の歩みを振り返るイベント
「青春ラプソディin香川」を開催。
平成14年11月18日にはコシノヒロコさんの母、コシノアヤコさんを招いて
栗林公園で「魔法にかかった、魅惑の夕べ」というファッションショーを開催。

そんなさまざまな活動をされている中野さんのもう一つの顔、それが・・・
日本ミャンマー女性協会会長。
ミャンマーの女性の自立を後押ししていくというお仕事だった。
2008年10月01日
コシノヒロコさんとの出会い
専門学校へ行って、次に求められた道・・・
それは
専門学校の先生になりなさい!てことだった。
先生には絶対なりたくなかったので、
20歳で脱出。
そして、神戸のアパレルメーカーのデザイナーとして就職した。
就職した年の夏、中野さんはそのメーカーでのヒット賞を受賞したそうだ。
そんなとき、コシノヒロコさんのお店のウインドウを見て
ぜひ教わりたい!て思ったそうだ。
思い立ったらすぐに行動する中野さん
すごい意気込んで履歴書持って行ったのに、
中野さんに会ったコシノヒロコさんはすぐにどうぞ!ってお弟子さんにしてくれたそうだ。
その後コシノさんのお手伝いで、TV用の作品などもたくさん作っていく。
そして、コシノヒロコさんのお母さんであるコシノアヤコさんとも出会い
後、一緒にファッションショーをすることになる。
それは
専門学校の先生になりなさい!てことだった。
先生には絶対なりたくなかったので、
20歳で脱出。
そして、神戸のアパレルメーカーのデザイナーとして就職した。
就職した年の夏、中野さんはそのメーカーでのヒット賞を受賞したそうだ。
そんなとき、コシノヒロコさんのお店のウインドウを見て
ぜひ教わりたい!て思ったそうだ。
思い立ったらすぐに行動する中野さん
すごい意気込んで履歴書持って行ったのに、
中野さんに会ったコシノヒロコさんはすぐにどうぞ!ってお弟子さんにしてくれたそうだ。
その後コシノさんのお手伝いで、TV用の作品などもたくさん作っていく。
そして、コシノヒロコさんのお母さんであるコシノアヤコさんとも出会い
後、一緒にファッションショーをすることになる。
2008年09月25日
専門学校へ入学
織物や染物の勉強がしたくて芸大を目指していた中野さん。
学生時代も勉強しながら
服の勉強を独学でしていたそうです。
ただ・・・どうしても自分でわからない部分が出てきたとき、
例えば、布地の名前がわからないとか、ポケットの縫い方がわからないとか・・・
そんなときどうしても知りたい!ということでそれを知るのが目的で
親に内緒で洋装店でアルバイトをしたりもしたそうです。
そこでプロの縫い子さんの技を研究。
そんなに一生懸命だったのに、ちょうど受験のころスランプに陥いり、
結局芸大目指すのを断念することになってしまいました。
そうなると、何もしないわけにはいかないということで、
地元の銀行への就職話しが持ち上がったのです。
でも、まったく自分が夢見ている世界とは違う世界へといけるわけもなく、
そこから早く脱出しなきゃ・・・・ということで、
また、自分で芦屋市にある田中千代服飾専門学校に入学することを決めました。
そう・・・
今の道への本格的な勉強のはじまりでした。
学生時代も勉強しながら
服の勉強を独学でしていたそうです。
ただ・・・どうしても自分でわからない部分が出てきたとき、
例えば、布地の名前がわからないとか、ポケットの縫い方がわからないとか・・・
そんなときどうしても知りたい!ということでそれを知るのが目的で
親に内緒で洋装店でアルバイトをしたりもしたそうです。
そこでプロの縫い子さんの技を研究。
そんなに一生懸命だったのに、ちょうど受験のころスランプに陥いり、
結局芸大目指すのを断念することになってしまいました。
そうなると、何もしないわけにはいかないということで、
地元の銀行への就職話しが持ち上がったのです。
でも、まったく自分が夢見ている世界とは違う世界へといけるわけもなく、
そこから早く脱出しなきゃ・・・・ということで、
また、自分で芦屋市にある田中千代服飾専門学校に入学することを決めました。
そう・・・
今の道への本格的な勉強のはじまりでした。
2008年09月21日
目指すもの
父親の
デザイナーになったらいい・・・って言葉が
ず~っと残っていた中野さん
自分がイメージするさまざまな服をその後たくさん作っていったそうです。
でも・・・やはり見よう見まねだけではできない部分もあり、
自分で作れないものは自分でデザインして、
プロに仕立ててもらったこともあるそうです。
ただ・・・それは親に内緒で・・・。
親に内緒といってもやっぱりばれてしまう。
そんなとき・・・・ご両親は中野さんを叱ったか・・・というと、
そうではなく、
「いいね、このデザインの服」て言ってくれたそうです。
そんな少女時代を送っていた中野さんは
そのうち、織物や染物の勉強がしたくて芸大を目指すことになります。

デザイナーになったらいい・・・って言葉が
ず~っと残っていた中野さん
自分がイメージするさまざまな服をその後たくさん作っていったそうです。
でも・・・やはり見よう見まねだけではできない部分もあり、
自分で作れないものは自分でデザインして、
プロに仕立ててもらったこともあるそうです。
ただ・・・それは親に内緒で・・・。
親に内緒といってもやっぱりばれてしまう。
そんなとき・・・・ご両親は中野さんを叱ったか・・・というと、
そうではなく、
「いいね、このデザインの服」て言ってくれたそうです。
そんな少女時代を送っていた中野さんは
そのうち、織物や染物の勉強がしたくて芸大を目指すことになります。

2008年09月17日
デザイナーになったらいい
中野さんにお聞きした。
最初にデザイナーになろうと思ったのはいつ?て・・・・
前回、7歳から服を作り始めた・・・て書いたけど、
そのころ絵を描くのが大好きな幼い中野さんに
お父さんがこう言ったそうだ。
「登志絵はデザイナーになったらいい」
その一言が今でも心に残っているそうだ。
たぶん・・・それが中野さんがデザイナーを目指すきっかけ。
子どもにとって、親の言葉っていうのは、
知らず知らずにその人生に影響を与えるものなのかもしれない。
でも・・・
そのお父さんの言葉はその時気まぐれで発した言葉でもなんでもなく、
その時から娘の才能に気づき、伸ばそうとしてたのだろう。

最初にデザイナーになろうと思ったのはいつ?て・・・・
前回、7歳から服を作り始めた・・・て書いたけど、
そのころ絵を描くのが大好きな幼い中野さんに
お父さんがこう言ったそうだ。
「登志絵はデザイナーになったらいい」
その一言が今でも心に残っているそうだ。
たぶん・・・それが中野さんがデザイナーを目指すきっかけ。
子どもにとって、親の言葉っていうのは、
知らず知らずにその人生に影響を与えるものなのかもしれない。
でも・・・
そのお父さんの言葉はその時気まぐれで発した言葉でもなんでもなく、
その時から娘の才能に気づき、伸ばそうとしてたのだろう。

2008年09月12日
7歳のデザイナー
白鳥町に生まれた中野さん
小さい頃から絵を描くのが大好きで、
小学2年生の時に美術部に入り毎日のように絵を描いていたそうです。
特にうなじの部分を描くのが好きで、
美術室の彫刻などを見るとうなじばかり眺めていたそうです。
そんな中野さんが
服をデザインすることに目覚めたのもそのころ。
それまでは自分や妹の服は全部お母さんが作ってくれてたそうなのですが、
その見よう見まねで
7歳の時にはじめて自分で洋服を作ったそうです。
当時、「女学生の友」という雑誌があり、そこに載っている服のパターンを参考に
ハギレを買ってきて作ってみたらとっても楽しかったそうです。
もう、自分の服はもちろんのこと、妹の服もすべて作ったそうですが、
服を作ったらそれに合う靴も欲しい・・・
小さい頃の中野さんの頭の中のイメージはどんどん広がるばかり。
ただ・・・やっぱり自分で作った最初の靴は、履いてみるととっても痛かったそうです。
そんな自分で試してみての失敗や成功から、
もの作りへの喜びがどんどん広がっていったそうです。

小さい頃から絵を描くのが大好きで、
小学2年生の時に美術部に入り毎日のように絵を描いていたそうです。
特にうなじの部分を描くのが好きで、
美術室の彫刻などを見るとうなじばかり眺めていたそうです。
そんな中野さんが
服をデザインすることに目覚めたのもそのころ。
それまでは自分や妹の服は全部お母さんが作ってくれてたそうなのですが、
その見よう見まねで
7歳の時にはじめて自分で洋服を作ったそうです。
当時、「女学生の友」という雑誌があり、そこに載っている服のパターンを参考に
ハギレを買ってきて作ってみたらとっても楽しかったそうです。
もう、自分の服はもちろんのこと、妹の服もすべて作ったそうですが、
服を作ったらそれに合う靴も欲しい・・・
小さい頃の中野さんの頭の中のイメージはどんどん広がるばかり。
ただ・・・やっぱり自分で作った最初の靴は、履いてみるととっても痛かったそうです。
そんな自分で試してみての失敗や成功から、
もの作りへの喜びがどんどん広がっていったそうです。

タグ :中野登志絵
2008年09月10日
ストーリーのはじまりに・・・
デザイナーが描くデザイン画・・・・
はじめて見せていただきました。
頭の中でどんなふうにイメージされて、
それが紙の上にどうあらわれてくるのでしょうか・・・・


そしてこのデザイン画が、今度は生地の上で素敵な形となっていって、
多くの人たちを素敵に彩っていくんですよね。
そんな素敵なお仕事をされてきたデザイナー中野登志絵さん
きっと・・・・一つ一つの経験が素敵なものづくりへのエネルギーになっているのでしょう。
そんなストーリーから、
何かに気づきたい・・・
そして、何かを感じとりたい・・・・と思います。
はじめて見せていただきました。
頭の中でどんなふうにイメージされて、
それが紙の上にどうあらわれてくるのでしょうか・・・・


そしてこのデザイン画が、今度は生地の上で素敵な形となっていって、
多くの人たちを素敵に彩っていくんですよね。
そんな素敵なお仕事をされてきたデザイナー中野登志絵さん
きっと・・・・一つ一つの経験が素敵なものづくりへのエネルギーになっているのでしょう。
そんなストーリーから、
何かに気づきたい・・・
そして、何かを感じとりたい・・・・と思います。
2008年09月07日
ファッションショー
皮革デザイナーである中野さんは
夕日が素敵に見える場所にアトリエを構えています。
そして、そこにはたくさんの作品が飾られてあります。
今まで何度かファッションショーを開かれたそうです。
そのとき知っていれば観たかったな~と思いながら・・・・
その作品の写真を見せていただきました。


皮が主体のファッション

とても個性的で、 不思議な魅力を感じます。
デザイナーの世界って・・・・どんな世界だろう。
夕日が素敵に見える場所にアトリエを構えています。
そして、そこにはたくさんの作品が飾られてあります。
今まで何度かファッションショーを開かれたそうです。
そのとき知っていれば観たかったな~と思いながら・・・・
その作品の写真を見せていただきました。


皮が主体のファッション


とても個性的で、 不思議な魅力を感じます。
デザイナーの世界って・・・・どんな世界だろう。
2008年09月04日
デザイナーズ物語
先日、ある女性に出会いました。
その方は
皮革デザイナーであり、そして、日本ミャンマー女性協会会長でもある
マリヤインターナショナル 代表 中野登志絵さん

コシノヒロコさんに師事し、
大阪を舞台にデザイナーとして活躍されていましたが、
そのあと、香川県に戻り、現在は三木町で全国にいらっしゃる
中野デザイナーファンのために活動されています。
大きな苦労や苦難を受け入れ、乗り越えてきた中野さんの周りには
様々な人が集まってきてます。
人のためにしたこと、考えたこと、
それが中野さんの経験となり、
それがまた人を大きく包み込む中野さんを作り出しているのではないかと・・・
そんな中野登志絵さんの魅力について、
これから紹介していきたいと思います。
その方は
皮革デザイナーであり、そして、日本ミャンマー女性協会会長でもある
マリヤインターナショナル 代表 中野登志絵さん

コシノヒロコさんに師事し、
大阪を舞台にデザイナーとして活躍されていましたが、
そのあと、香川県に戻り、現在は三木町で全国にいらっしゃる
中野デザイナーファンのために活動されています。
大きな苦労や苦難を受け入れ、乗り越えてきた中野さんの周りには
様々な人が集まってきてます。
人のためにしたこと、考えたこと、
それが中野さんの経験となり、
それがまた人を大きく包み込む中野さんを作り出しているのではないかと・・・
そんな中野登志絵さんの魅力について、
これから紹介していきたいと思います。





